アズハル・モスク

970年にファーティマ朝の新都カーヒラの中央に、第4代カリフ・ムイッズによって建設が始まり、シーア派教学の中心となった。その後、度重なる増改築を経て、現在もスンニー派イスラーム教学の最高学府である(1)。イブン・トゥールーン・モスクの北北東2.2キロメートルに位置する。

北西面はマムルーク朝期からの増築部で、近傍に見える大きなドームとミナレット(2、3)は、オスマン朝のムハンマド・ベイ・アブール・ダハブ・モスク(1774年)である。北西面の北側はマムルーク朝のアミール・アークブガーが1335年に増築したマドラサの外壁、南側はムハンマド・アリー朝のアッバース・ヒルミー2世が1894年に改築した外壁である(4、5)。その中央に位置する対のアーチの入り口は、18世紀中葉、オスマン朝のアブドゥル・ラフマーン・カトフダーの建設である(6〜11)。なお、当時この門の上に学生の散髪所が合ったことから「床屋の門」と呼ばれる。

現在、アズハルには5本のミナレットがある。マムルーク朝期に建造された3本は、北西面入り口側に残る。入り口北に位置するのが、アミール・アークブガーが1335年に彼のマドラサにしたミナレットである(6)。なお隣接する彼の墓のドーム自体は、オスマン朝の改築であるがその基部は当時のままである(13)。中庭の北西面にあるのが、スルターン・カーイトバーイ(1495年、17)とスルターン・ガウリー(1511年、12)が付加した2本で、スルターン・ガウリーのミナレットは塔頂部が2本の特徴的な構成となる。オスマン朝期には、アブドゥル・ラフマーン・カトフダーが3本のミナレットを寄進し、うち2本が南西のキブラ側に残る(15、16)。

通りに面する北東面は、近年沐浴場などの付属建築が撤去され、改築された。中庭への入り口(14)とマムルーク朝の宦官ジャウハル・クヌクバーイーのマドラサと彼の墓のドーム(1440年、15)がある。

クレスウェルの復元によると、創建当初は間口80メートル奥行70メートルで、中庭をもつ多柱室モスクであった。その奥壁にあったミフラーブ(22)は、創建当初のもので、インスクリプションが金彩で補修されている。なお、ミフラーブ上部の壁のスタッコ装飾はマムルーク朝、ミフラーブの直前に位置するドームはオスマン朝期の改築である(21)。

中庭を囲む列柱廊は、ファーティマ朝第11代カリフ・ハーフィズによって付加された(16〜18)。礼拝室の中央入り口部分は高く立ち上がり(16)スタッコ装飾の美しいドーム(23)に連なり、これらは同じく彼の増築である。礼拝室は、アムル・モスクと同様に細い円柱にアーチを架け、平屋根で覆われる(19)。

オスマン朝期、1754年にアブドゥル・ラフマーン・カトフダーが礼拝室をキブラ方向に増築し(19)、そこには大理石象眼細工のミフラーブ(24、25)がある。オスマン朝期には、特有のステンド・グラス(20)や糸杉の文様(11、21)などが顕著である。