ハーキム・モスク

ファーティマ朝の宮殿都市カーヒラの北壁の外側に、ファーティマ朝第5代カリフ・アズィーズによって990年に建設が始まり、第6代カリフ・ハーキムによって1003年に完成したモスク。1010年にミナレットの突出壁が増築され、1013年に再び開堂宣言がなされた。なお、ファーティマ朝第8代カリフ・ムスタンスィルの宰相であったバドル・ジャマーリーがカーヒラの城壁を石材で改築したことによって、ハーキム・モスクの北東壁が城壁となった。すなわち、モスクの北のミナレットの西隣にカーヒラの北門であるフトゥーフ門が位置し、そこからの通りが南のズワイラ門へと続いた。この通りは、バイナル・カスライン(二つの宮殿の間)通りと呼ばれるのは、ファーティマ朝の東西の宮殿の間に作られたことに因っている。またモスクの北東部に、おなじくカーヒラ市壁の北門であったナスル門が位置する。

北西面の中央に入り口(1)、両端にミナレット(2〜9)をもち、外形は間口120メートル奥行110メートルで、中庭をもつ多柱室モスクである。キブラ側の礼拝室はキブラ壁前の中央と両端に3つのドームをもつ(10)。中庭はイブン・トゥールーン・モスクと同様に矩形の太い柱(ピア)で囲まれ(11)、礼拝室もピアが林立する(13)。礼拝室の中央廊が幅広く、一段高くつくられ、上部には高窓層が設けられる(12、14)。中央入口の突出する門(1)、礼拝室の一段高い中央廊(12、14)に関しては、ファーティマ朝の故地チュニジアのモスクとの類似性が説かれている。

このモスクのミナレットにはいくつかの謎がある。北隅のミナレット(4、6、7、8、9)と西隅のミナレット(2、3、5)は、現状では内転びの壁体で、上部に八角形の塔が立つ。しかし、アズィーズが創建しハーキムが1003年に完成させたミナレットがこの壁の中に残っている。本来の北隅のミナレットは円筒状、西隅のミナレットは四角形の基礎上に八角形断面の塔であった。1003年から1013年の間に、ハーキムが、当初のミナレットを囲む壁を建設したのである。さらに1303年の地震によって、ミナレットの上部が崩壊したために、バフリー・マムルーク朝第14代スルターン、バイバルス・ジャーシャンキールが、内転びの壁部分をさらに高くし、上部にレンガ造の塔を改築した(5)。

このモスクも、長い歴史の中でさまざまな用途に使われ、多くの改修を経ている。最初のイスラーム博物館が19世紀末にここで始まり、ナセル大統領時代には男子校であった。中央廊のミフラーブは、1980年代にイスマーイール派の一派ボーホラー派の資金で建設された(14)。