サーリフ・アイユーブのマドラサ

カーヒラのズワイラ門(南門)とフトゥーフ門(北門)をつなぐバイナル・カスライン通りの中央部東側に位置する。

アイユーブ朝第7代スルターン、サーリフ・アイユーブが1243年に建設したスンナ派四法学派を教授するためのマドラサ(寄宿制の高等教育施設)である。四法学派を対象としたことは、エジプトで最初に位置づけられる。なお、アイユーブ朝第5代スルターン、カーミル(サラディンの甥)が、1220年に北120メートルほどのバイナル・カスライン西側に建設したスルターン・カーミルのマドラサがエジプトで最初のマドラサとされる。マドラサはペルシアから導入された建築で、イーワーン(大アーチ開口広間)を中庭の両端につくり教室とし、残りの2辺に学生居室を並べたものであった。サーリフ・アイユーブのマドラサでは四法学派を教えるためにこの二イーワーン式を並列した。現在ではバイナル・カスライン沿いの店舗の裏にあるファサード(1)と北の一棟が部分的に残る。

二棟の二イーワーン式マドラサの間、バイナル・カスライン通りから東に入る小路の上にミナレットが建設された。ミナレットの下部には入り口の装飾的なアーチが残る(1)。ミナレットは、石造で頂部にレンガ造の八角形部分が載る(1、2)。アイユーブ朝期のミナレットは、フサイン・モスクとこの実例しか残っていない。

サーリフ・アイユーブの妻で、バフリー・マムルーク朝の初代スルターンとなったシャジャルッドゥッルが1249年に十字軍との戦いで没したサーリフ・アイユーブの墓を付設した(1250年、3〜5)。墓廟の西面はバイナル・カスライン通りに面し、通りから覗けるように格子の入った窓が設けられ、その北側にマドラサへの入り口がある(4、5)。マムルーク朝になると、マドラサなどの宗教建築に建設者の墓を付設することが一般化する。

通りに面した北西部にバフリー・マムルーク朝第5代スルターン、ザーヒル・バイバルスのマドラサの残存遺構(1263年、3〜5)、墓廟の南にオスマン朝エジプト総督ホスロー・パシャのサビール・クッターブ(1535年、3、4)がある。