カラーウーンの複合体

カーヒラのズワイラ門(南門)とフトゥーフ門(北門)をつなぐバイナル・カスライン通りの中央部西側(1〜7)、サーリフ・アイユーブのマドラサに対面する。バフリー・マムルーク朝の第8代スルターン・カラーウーンがマドラサ、病院、墓廟の複合体を1284年に建設した。彼は、アイユーブ朝第6代スルターン・アーディル2世の時代から仕官したキプチャク系のマムルーク(軍人奴隷)であった。なお、バフリー(川、海)はナイル川を意味し、中洲のローダ島にアイユーブ朝スルターン・サーリフ・アイユーブが設営したバフリーヤ軍団に由来し、14世紀末チェルケス人のブルジー(城塞の塔)・マムルーク朝と区別される。カラーウーン家はバフリー・マムルーク朝の後半期にスルターン位を独占するようになる。北隣に息子ナースィル・ムハンマドの複合体が接している。

入り口(7〜9)の北にミナレット(5、6)と墓廟(1〜3)、南にマドラサ(4、7)が通りに面している。ファサードはかなり高く、尖頭アーチの中に対のアーチと円窓が入ったデザインに関して、十字軍を通じてシチリアの影響が指摘される(4、5)。入り口部分には、シリアで顕著であった白大理石と黒大理石の象眼細工が使われ、またイスラーム時代以前の円柱や柱頭も各所に使われる(9)。

屋上のミナレットは、二層の角柱部分と頂部の円筒部分からなる(6)。角柱部分は、1284年の建設で、石造で馬蹄形アーチをもつ。頂部の円筒部分は、1303年の地震の後に、息子ナースィル・ムハンマドがレンガ造で増築し、レース状の文様が特徴的である。馬蹄形アーチもレース状の装飾も、当時、北アフリカで顕著な様式である。なお、頂部建設と同時期に同じ施主によって建設された隣のナースィル・ムハンマドの複合体のミナレット(1304年)は、繊細な漆喰細工とムカルナスのバルコニーをもつ。

入り口(10)を入ると長い通廊が続き、左にマドラサ、右に墓廟の入り口がある。墓廟では、まず無蓋の小中庭(11、12)に導かれ、そこから右に直角に曲がると墓室(13、14)へと至る。墓室は20メートル四方の部屋の中に、8本の柱の上に高いドームが載る。柱は4本のピア(太い角柱)と4本のコラム(細い円柱)で構成される。平面構成はエルサレムの岩のドームと類似するが、カイロでは他に例をみない特殊な形態である。中央の八角形を取り巻く回廊部分の天井は、木造のムカルナス装飾で覆われ(15)、バイナル・カスライン通りに面した窓には格子が入る(16)。

複合体の奥は病院へと通じる。本来は中庭の四辺にイーワーンをもつ四イーワーン式であったが、崩壊が激しい(17)。

マドラサは、サーリフ・アイユーブのマドラサと同様の二イーワーン式ながら、礼拝室のキブラ・イーワーンはバシリカ式の教会堂に似た新傾向が見られる。反対側のイーワーンは復元された(18)。