ハサンの複合体

城塞の西側(1〜4)、イブン・トゥールーン・モスクの北東、カーヒラの南方に建つ。ムハンマド・アリー朝時代のリファーイー・モスクが北側に隣接し(4〜6)、カイロの代表的なイスラーム建築で、大モスク、マドラサと墓廟の複合体である。大中庭に四つの巨大なイーワーンを持つモスクを中心として、キブラ・イーワーンの奥に巨大な墓廟建築を配し、大中庭の四隅にイスラーム四法学派のマドラサが半独立した形である点は、類例がない。現在は、ルマイラ広場に面して建っているが、本来は混雑した市街地の中に建設された。

ハサンはバフリー・マムルーク朝最盛期のスルターン、ナースィル・ムハンマドの息子で、2度にわたってスルターンに在位した(1347〜51年、1354〜61年)。2度目のスルターン在位期の1356年に着工し、1363年に完成するが、完成前の1361年にわずか29歳で暗殺された。当時、バフリー・マムルーク朝は混乱期に向かい、直前の1348年にはペストの大流行(黒死病)が猖獗を極めた。

巨大な建築で、間口68メートル奥行150メートルに達する。現在、東側両端に2本のミナレットが建つ(6〜8)。南の高さ84メートルのミナレットはマムルーク朝期のものであるが、北の低いミナレットは、マムルーク朝期のミナレットが1659年に倒壊したのでオスマン朝期1671/2年に改築された。なお、ミナレットの間に突出する墓廟のドームも1661年に倒壊し、架け直されたものである。マムルーク朝期のドームは、木造であった。

マドラサの軸線と入り口部分は17度ずれている。入り口の上には対のミナレットが計画された。ミナレットを対にして建設することは、12世紀のペルシア(セルジューク朝)起源で、アナトリア、インドにも13世紀の実例が知られている。エジプトでは、ハーキム・モスクのように両端に建てる例は知られていたが、これより古い対のミナレットは現存しない。ところが1361年に建設中の一本が崩壊し、300人の人々が亡くなったので、ミナレット建設は断念され、対のミナレットは実現しなかったのである。

建造物の北西隅に位置する入り口は(9、10)、壮麗である。上部の半ドームはムカルナスで覆われ(11〜13)、両側のパネルは象眼細工で飾られる(14〜16)。半円形のニッチ(14)、さまざまな書体のインスクリプション(15)交錯する幾何学組み紐紋(16)が見られるが、一部は未完のままである。

入り口を入るとムカルナスで飾られた前室へと導かれる(17)。十字形の部屋で、美しい大理石象眼細工が残る(61)。この部屋を抜け、曲折する通路(18、60)を通るとモスクの大中庭へと通じる(19、20)。

中庭は4つの巨大なイーワーンに囲まれる(21〜24)。キブラ側のイーワーンが最も巨大で、装飾も豊かである。中庭中央のサビールは、1362年の建設で、8本の円柱の上に木造ドームが載っている(25〜31)。

キブラ・イーワーンには無数のガラス・ランプが吊り下げられており(32〜35)、マムルーク朝期のランプはイスラーム博物館に収蔵されている。礼拝室イーワーンのキブラ壁は、下部な色石細工でその上部に漆喰のインスクリプション帯が設けられるが、その上部では窓以外は無装飾のままである(36、37)。ミフラーブ(38〜41)、ミンバル(42、44)、ディッカ(45、46)は、マムルーク朝の卓越した工芸の力を見せつける。キブラ・イーワーン側面の上部にも、漆喰細工のクーフィー書体のインスクリプションが残っている。下地のアラベスク文様は、イル・ハーン朝の事例と類似する(47〜50)。中庭の他のイーワーンは無装飾である(51)。

中庭の4隅には、4つのマドラサが配置された。中庭の大イーワーンの横にマドラサへの入り口が設けられる(52、53)。キブラ・イーワーンの左手、南東隅がハナフィー派、北東隅がシャーフィイー派、南西隅がマーリク派、北西隅がハンバル派のマドラサであった。それぞれのマドラサに、ひとつのイーワーン、四層の学生居室をもつ中庭が準備され、それぞれ56室、52室、44室、22室の居室をもつ。マドラサの多層の居室の窓がファサードに現れる(9、10)。ワクフには500 人を超える学生が記述され、スタッフやクルアーン学校生などをあわせると1000人もの人々を抱えていたことがわかる。

中庭面は大理石で舗装される(54、55)。もう一つ存在したサビールが19世紀にマーリダーニー・モスクに移築されたとき、床の大理石も修理された。

礼拝室イーワーンのミフラーブの両脇に、墓廟へと通じる扉が設けられている(36)。墓廟には(56〜58)スルターン・ハサンは埋葬されていない。暗殺された彼の遺体は見つかっておらず、彼の二人の幼い息子達が葬られている。墓廟を覆う直径21メートルのドームは、本来は木造ながら、カイロでは最大規模である。

なお、入り口部分には、水廻りの施設と複合体が設けられていた(59)。サーキヤ(水車)と水槽があり、雄牛の家(ダール・バカル)と呼ばれ、牛が水車を回していた。通廊(60)が複雑に走り、今はない商業施設やクルアーン学校へと連なっていた。