バルクークの複合体

カーヒラのズワイラ門(南門)とフトゥーフ門(北門)をつなぐ目抜き通りの中央部西側、スルターン・ナースィル・ムハンマドの複合体(2、3)の北、スルターン・カーミルのマドラサ遺構の南に接する。対面する曲面のファサードはイスマーイール・パシャのサビール・クッターブ(1828年)である。

チュルケス・マムルーク朝の創始者スルターン・バルクークが1384年に着工、1386年に完成させた、マドラサ、大モスク、ハーンカーと墓廟の複合体である。バルクークはクリミア出身のチェルケス人奴隷で、スルターン・ハサンをクーデターにより殺害した実力者、ヤルブガー・ハーサッキーに仕官し、城塞の塔(ブルジー)の兵営で訓練をうけ、バフリー・マムルーク朝後半期にスルターン位を独占したカラーウーン家のスルターン達の時代の末期に活躍し、遂にはスルターン位を奪取した。彼の二人の息子以後、チェルケス系マムルークの出身者が相次いでスルターン位につくようになった。バルクーク以降のマムルーク朝をチェルケス(ブルジー)・マムルーク朝と呼ぶ。

南から北へと入り口、マドラサ、墓廟、ミナレットが並ぶ(1、2)。ファサードは白と黒の石を重ねたアブラク(縞状の色石装飾)で、上部にはティラーズ(インスクリプションを綴った帯状装飾)、ムカルナス(鍾乳石飾り)、バトルメント(銃眼)と続く。墓廟のドームは当初のものではなく、19世紀に崩壊した後に1893年に改築されたレンガ造ドームで、本来は木造であった。ミナレットは八角形のシャフトを重ねたもので、繁縟な彫刻装飾をもつ(4〜9)。中間層の交差する円形文様には、白大理石がはめ込まれている。

入り口を入ると、四イーワーン式のマドラサの中庭へと通じる(10)。中央の八角形の沐浴施設は、落成式に甘露であふれ、人々には砂糖菓子が配られたとの記録が残る。道路側の礼拝室は、側部に2本の柱列が挿入され、3部分に分割される。大アーチの下に石造ディッカ、キブラ壁には色石細工のミフラーブと木造ミンバルが設置される(11)。他の3つのイーワーン(10、12)はトンネル・ヴォールトを戴くが、礼拝室は寄せ木細工の彩色平天井をもつ(13)。

なお、バルクーク自身はこの墓廟には埋葬されず、北のカラーファに営んだハーンカーに埋葬された。この墓廟には、バルクークの娘ファーティマが埋葬されている。