シャーヒーン・ハルワティー・モスク

フスタートの東側、ムカッタムの丘の麓には広大な墓地(南のカラーファ)が広がり、その東端ムカッタムの丘の中腹に位置する。イラン出身のシャーヒーンは、チュルケス・マムルーク朝第21代スルターン、カーイトバーイに仕えていたが、神秘主義者としての生き方を選んだ。タブリーズのハルワティー教団へと赴き、エジプトへとハルワティー教団を導入し、1495/6年に没した。「ハルワー」は隠遁を意味し、ハルワティー教団はアゼルバイジャンを中心とした神秘主義教団で、オスマン朝期に流行した。

カイロを首都として、地中海世界に君臨したマムルーク朝は、ティムール朝との戦い、キプロスやロードスへの出兵など、財政危機を迎えていた。1517年にイスタンブルを首都とするオスマン朝に破れ、エジプトはオスマン朝の支配下に編入される。1538年、ハルワティー教団は瞑想のためのザーウィヤと隠遁所、シャーヒーン廟を丘の傾斜地に建設した(1〜4)。墓は、砲弾型のドームを戴くマムルーク朝風の建築であるが、ミナレットは装飾のない鉛筆型のオスマン朝風の建築である。建物は、全くの廃虚と化している。この複合体の100メートルほど西の平地に、中庭を囲んで(5)、ドームを戴く墓建築がある(6)。同じくハルワティー教団のものであるが、時代は下る。また、丘の中腹にはうち捨てられた洞窟もあり(7、8)、神秘主義教団が隠遁の場として使ったものであろう。