ムハンマド・アリー・モスク

カーヒラの東側、アイユーブ朝から続く山の城塞(カルアトゥルジャバル)に位置する。ナースィル・ムハンマド・モスクの北西に位置し、カイロのスカイラインを飾るランドマークである(1〜3、5)。城塞(4)の前の広場には、マフムーディーヤ・モスク(1568年、6、7)があり、広場からは礼拝室のドーム複合体と西側に作られた前庭の壁が見える(8〜12)。

このモスクは、オスマン朝の支配下からエジプトを実質的に独立させたムハンマド・アリー朝の初代ムハンマド・アリーが築いた。ムハンマド・アリーはギリシア出身のアルバニア人で、ナポレン率いるフランス軍と戦うために、1801年にオスマン朝がエジプトへと派遣したアルバニア人部隊長であった。1805年にエジプト総督となり、オスマン朝の宗主権のもと事実上独立した。ムハンマド・アリー・モスクは1830年に着工したが、1848年にムハンマド・アリーが没したときには未完成で、彼の息子ムハンマド・アリー朝第4代サイードの統治下の1857年にこのモスクに葬られた。

アルメニア人建築家によってイスタンブルにあるスルタン・アフメト・モスクをモデルに設計された。ムハンマド・アリーは山の城塞(カルアトゥルジャバル)に残存していた荒廃したマムルーク朝時代の宮殿群を撤去し、新たな大モスクを建設した。当初、ムハンマド・アリーは、マムルーク朝デザインに心酔していたフランス人建築家に依頼したが、急遽アルメニア人建築家に変更し、イスタンブルのオスマン朝風の建築を選んだ。

モスク自体は、間口57メートル奥行53メートルの前庭と、間口45メートル53メートルの礼拝室から成る。前庭の西側中央にたつ時計塔は(13〜15、28)、1846年にフランス国王ルイ・フィリップから、オベリスクと交換に贈られたもので、そのオベリスクはパリのコンコルド広場にたつ。時計塔にはガラス張りのティー・サロンが設けられ、ネオ・ゴシック様式とオリエント様式が折衷している。ミナレットは礼拝室の西辺両端、前庭との接点に建ち、高さ83メートルと、ハサンの複合体のミナレットよりも高い(16〜18)。鉛筆型のオスマン朝風ミナレットではあるが、オスマン支配下のモスクのようなムカルナス装飾は伴わない。モスクの東側(キブラ側)は突出し、半ドームが架かる(20、21)。

礼拝室は、直径20メートルの中央ドームに、4つの半ドームが接続する平面で(22、23)、その四隅には小ドームが載る(24)。中庭は列柱廊で囲まれ(25〜27)、中央にはサビール(給水施設)が配される(29、30)。サビールのドームにかかれた図像や円柱はバロック風である(31、32)。また、列柱廊には半円アーチが使われ、西洋古典建築からの影響が指摘できる(33)。礼拝室内には4本の巨大なピアが建ち(34)、大ドーム(35)と広い礼拝室を支えている。なお、大ドームは、クラックの修理のために1937年に撤去され、1939年に再び架けられた。

装飾は西洋古典建築から派生したバロック建築の様式が顕著である(36、37)。壁面は従来の色石張りではなく、白茶色単一の石材が用いられ、石の縞目と浮彫りによって変化を醸し出す。礼拝室キブラ側のミフラーブも同様に単一大理石像で、隣にある大理石ミンバルは1939年にムハンマド・アリー朝第10代ファールークが寄進したものである(38)。なお、木造の大きなミフラーブは建設当時のものである(39)。創建者ムハンマド・アリーの墓は、礼拝室の南西隅の小ドームの下に設けられている(40〜42)。窓にはブロンズの格子が入る(43)。