リファーイー・モスク

ハサンの複合体の北側に建つ。ムハンマド・アリー朝後期のネオ・マムルーク朝様式の代表作である。ムハンマド・アリー朝第5代イスマーイールの母フシヤルによって、神秘主義聖者シャイフ・アリー・リファーイーが葬られたリファーイーのザーウィヤ(修道場)の上に1869年に建設が始まった。彼は、リファーイー教団の祖とされるイラク出身のアブー・アッバース・リファーイー(1106〜82年)の孫にあたる。モスクとともにシャイフ・アリー・リファーイーの墓、預言者ムハンマドの教友シャイフ・アブドッラー・アンサーリー、そして創建者とその家族の墓が、建築家フサイン・パシャ・ファフミーによって設計された。しかし、建築家と創建者の死によって、未完のままであった。1905年になって、ムハンマド・アリー朝第7代アッバース・ヒルミーの治世にハンガリー人建築家マックス・ヘルツ・ベイによって建設が再開し、1911年に完成した。

モスクの南側、ハサンの複合体との間の南ファサードは、中央に対のミナレットが建ち、その下に対の入り口があり、中央のドームが見える(1〜3)。西側に主入り口が設けられているが現在は使われていない。入り口は高い階段の上にある(4、5)。ムカルナス柱頭をいただく捩り円柱や、色石象眼が用いられる(6、11)。突出部の天井は、入り口の伝統的なムカルナス・ヴォールト(7)が木造の天蓋へと続く(10)。ミナレットは(8、9)この建築を仕上げた建築家ヘルツの作で、近代都市のヴィスタを飾る塔として、隣り合うハサンの複合体と呼応するようにマムルーク朝の伝統的な様式が採用された(21)。

このモスクは間口70メートル奥行100メートル巨大ながら、中庭を持たない。中央キブラ側の礼拝室は間口奥行ともに45メートルを3スパンで構成する。礼拝室には、巨大な4本の束ね柱が建ち、色石で飾られる(12〜14)。キブラ側には色大理石のミフラーブと木造ミンバルが配置される(14〜16)。室内は4本の柱によって9つのベイに分割され(17、18)、中央に一段高いドームが架かっている(19、20)。

シャイフ・アリー・リファーイーは、西入り口から入った中央の部屋に葬られている。その前室の天井には長い八角形の明り採り窓が設けられる(22、23)。窓には、ステンドグラスが使われる(24)。礼拝室を囲むように周囲の部屋には多くの墓が設置されている。北西隅の部屋にはムハンマド・アリー朝第8代フサイン・カーミル(1914〜17年在位)のセノタフがあり(25)、その東隣には女性達を葬った墓室がある(26)。1885年に没した創建者と彼女の息子スルターン・イスマーイール(1879年没)の墓は、北壁沿いに中央の墓室にある。南西の隅の部屋に、ムハンマド・アリー朝第9代フアード1世(31、32)と彼の母、その東隣の部屋にイランのパフラヴィー朝第2代国王モハンマド・レザーの墓がある。開口部にはブロンズの装飾的な格子が入り、ヨーロッパ建築との折衷様式を見せる(27〜30)。一方、色彩が施された壁面の石製浮彫(33)、木製の象眼細工(34)、床絨毯(35〜37)などは、伝統的な様式を見せる。